もっともっとと追い求めていると、いつまでも尽きないことに気づく。
これは昨日の記事で書いたことです。
息子は歩き始めるのも、言葉を発するのも遅く、検診では別室に通されました。
ここで言う遅いというのは、他の子と比較してなんですよね。
ただ、その事実を言われると、気にならない親はいない。
それと同時に、他の子に追いつくように、もっと、もっと、という気持ちも芽生えてしまう。無意識にね。
さらに、息子が不登校になって学校と距離ができたことで、学校やお母さん方の姿を客観的に見れた、それが自分の気づきの要因になった、とこれも昨日の記事に書きました。
でも、気付きとは一つに限ったものでもありませんね。
いろんなきっかけがあり、その都度気付いていくことで、自分自身が変わって行きます。
これは、離れたことで気付けた例。
もう一つの究極の方法は、自分が納得するまで求めることだと思います。
これは『欲』全般に通じますね。
恋人が欲しい。
結婚したい。
子供が欲しい。
マイホームが欲しい。
お金が欲しい。
そして、子供に学校に行って欲しい・・・。
一つの欲を満たせば、次の欲が出てきます。
もっと〇〇だったら、幸せなのに、ですね。
だから、欲しいものがなくなるまで、或いは自分が納得するまで、とことん追い求めるのも手です。
そして、欲しいと思っていたものを手にした時、どんな気持ちになるのかを意識して感じてみて下さい。
やっと手に入った〜、幸せ〜、と感じるでしょうか?
こんな感じか?まだまだ何かが足りない、と感じるでしょうか?
簡単に手に入るものならまだしも、手にするのが簡単でないものは時間もかかりますから、その間、自分も確実に年齢も重ねていることを忘れないでくださいね。
もう40歳、もう50歳・・・
焦りにならないように。
これは、他人にどんなに言われても、自分で体感しないことにはわからないものだと思います。
だからこそ、欲望という火を自分の中で燃え尽きるまで、燃やすのがいい。
へとへとになるまで、私何やってるんだろうと思えるまでね。
火はいつかは鎮火しますから。
そして、鎮火した時に振り返ってみて、すでにあったんだと気付けたり、今というこの時の幸せに感謝できるのかもしれないです。
私は、すごく面倒なタイプの人間でして、頭だけでの理解ではモヤモヤで、気持ち悪さが残ります。
自分が苦しくも、自分に痛みを課して、なんとか納得したい。腑に落としたい。
この気持ちがあるのです。
だから、徹底的に追うことをしてきました。
物質的なものも、不登校もです。
もがきながら、、苦しみながら、頑張って、『何も変わってないじゃない』って気付くまで。
そして、頑張るだけ無駄って思えるようになったんです笑
物を追い求めても際限がないこともわかったし、良かれと思っていろんなことをしても息子は登校しないし。
そう思えた頃から、気持ちが楽になったのは確かです。
欲は頑張る力につながりますから、なくさない方が良い場合も思います。
ただ、欲のステージををちょっとだけ上げてみると良いのかな?
物に関して言えば、5年、10年後も飽きずに使えるかな?と考えて、妥協のない買い物をすればいいし、息子の5年、10年後はどうなっていて欲しいか?とイメージしてみれば、違う対応が見えてくるかもしれませんし。
自分自身の人生を振り返ると、ホント、不器用で、融通がきかないヤツだなって思います。
自分が納得するまで、とことん痛めもするし、膨大な時間もかけていますからね。
でも、この方法じゃないと納得しないのが私なんです。
なんだか、我ながらもっとスマートに生きれたらと思うけど、多少なりとも気付けた今は、欲と今あるものを幸せと感じる心、このバランス感覚が少しだけ身についたのかな?って思っています。
欲しいとと思っていたものを手にした時、私の嬉しさはそんなに長くは続かず、次は何を励みに生きればいいのだろう?そんな思いに襲われていたんです。
生きる活力を得るために『欲』が必要だった。
この繰り返しに疲れて、力が抜けた時、今既にあるものがキラキラと見えた気がします。
息子に関しても、息子が学校に行ってくれたら、全てが変わるから、頼むから行ってくれ〜と思っていて、これでは完全なお祈り状態笑
もし仮に、ここで息子が登校していたら、私に変化はなかったでしょうね。
自分が願っていたことをきれいに忘れて、次は成績を上がればとか、部活で良い成績をとか、考えていたに違いありません笑
自分のことだからよくわかりますよ笑
だから、息子の不登校は大切な機会でした。
今は特に受験です。競争は避けられません。
昔の私なら、他の子供に劣ることに耐えられなかったかもです。
でも、今は、お先にどうぞ〜、と譲ります。
生活リズムが普通の子供とは違っても、息子が自分で進路を決め、必要と思って勉強もし受験に備えているのです。
息子がいる生活の喜びは、産まれた時から変わっていません。
目を向けるのは、あくまで息子自身。
人とは違っても、息子なりに成長しています。
人と比較するのではなくて、過去の息子と比較する。
人との比較に苦しむのではなくて、過去から成長した息子に喜ぶ。
人との比較に陥り、苦しくなる時、私は息子を見つめるようにしています。
息子が今日も存在している幸せを、こんなに成長したと思える喜びを、感じるようにしているんですよ。
これで、私の心は落ち着きます。