誰でも持つ不安。
不安をバネにしていける人もいれば、自分でさらに不安を大きくしてしまう人もいて、これは持って生まれた性格によるものだろうか?と時々思うことがあります。
自分はどうだったのかを改めて考えてみました。
若いときは、経験も浅いから今ほどいろんなことも知らない。
人には勇気あるように見えた私の行動は、ただ自分が怖さを知らなかっただけの行動だったと言えます。
1人で海外に行ってしまうのはその典型的な例でした。
その時の私は希望と楽しみだけ。
不安は一切感じていなかったのですが、両親や家族は真逆です。
これは私が不安を感じるという前に、実際の怖さを知らないという知識不足、情報不足によるものが大きいですね。
親や家族をはじめ年上の方ならまだしも、私の友人からも『私はそんな勇気を持てないよ。』と言われたこともありました。
でも、その時の私に勇気があったわけではなく、世の中を知らな過ぎたということの方が大きくて、これは不安を乗り越えた、と言えるものではないと思います。
その後もたくさんの不安はありましたね。
子供の不登校もそうだし、両親の病、その後の看取るという不安、その後相続にまつわる不安。
現在では息子の将来の不安もあれば、年老いた義両親の心配、不安もあります。主人と私の健康面の不安、老後の不安もありますね。
これらの私の不安の対処法というのは、『今、現在はどうなのか?』と自分に問うことです。
大抵の場合、『今』は大丈夫。
そう思えると、ちょっと心が緩み、落ち着いてその問題に向き合うことができるんですね。
不安のほとんどはこれで乗り切れてきたように思いますが、ただ一つ例外があります。
それは東日本大震災。
以前から読んでいただける方はご存知だと思いますが、私は被災地である宮城県に住んでいます。
この時は生命の危機を感じましたし、それと共に神の加護というのも感じました。
生かされた・・・
守られた・・・
このことは一生忘れないでしょう。
しかし、その後の余震に対する不安を消すことはできませんでした。それは、生命を脅かす不安そのものだったから。
揺れが起こるたびに、自分の生命というものを身近に感じていたあのとき。
私は震災という経験でしたが、事故や病気など生命を感じる出来事は他にもありますね。
『不安のほとんどは起こらない』という言葉も聞きますが、確かにそうだと思います。
私は生命の危機につながらない不安だったら、それで乗り越えられるのかもしれない。
でも、生命の不安に直面するものに対しては無力そのもの。
でもね、この不安さえもかき消すものがあるとしたら、それは人の心だと思います。
遠くに住む友人知人、そして、直接には知らない方の心。
心は心を強くします。
励ましの声や行動は私の心を強く明るい方向に導いてくれました。
これも人によって違うのかな?
傷を癒すように接してくれることが不安の解消につながる方もいるかもしれませんし、私のように明るさ、元気に引っ張られることで不安が解消につながる方もいます。
不安の解消法も皆が同じではないですね。
これが私の不安に対する向き合い方です。
書きながら振り返り、まとめてみました。
こうしたことから、私が不安を抱えている方にできることがあるならば、一緒に不安を感じつつも、そこで一緒に浸るのではなく、
明るく、元気に、楽しく、
どんな日であろうとも、同じ場所で照らし続ける『明るい心』を持って接することかなと思います。
私自身、明るい性格には見えないかもしれませんけど、心の方ね。
明るく振る舞うのではなく、明るく考える心のことですね。
明るく考え、その考えのもと行動するということです。