最近は主人の息子に対する目が優しいです。
息子は気持ち悪がりますが、私にとっては、とても嬉しいこと。
主人なりに、ずっと心を悩ませ、考え、息子のことを思っていたのでしょうね。
我が子は似たところもあり、全く似ていないところもあり、なかなか理解できないところもあります。
主人にとって不登校は、理解が難しいもの、途方に暮れるくらいにわからないもの、暗闇の中で手探りさえもできない感覚だったと思いますよ。
一緒にいる私も本当に長いこと、さまよっていましたからね・・・
でもね、ちょっと扉が開けると、次から次とわかる感覚になるのも不思議。
主人の口から意外な言葉が出てくることも多くなり、私はそのように思うんですよね。
この気持ちは私がどんなに話しても伝わるものではなく、本人が気付かない限り、本人が感じない限りは、近づけないものだと思います。
そのタイミングがいつ訪れるかは、相手の心を知る努力によっても変わってきますよね。
主人の言った言葉は『俺は怒られようがビンタされようが通えたし、昔はみんなそうだった。でもな・・・行かないんじゃなく、行けないんだよな・・・』でした。
登校にブレーキがかかる息子の心を理解し始めたのかな、と思える言葉でしたね。
登校できる主人がそこで登校しなくなるのは、怠けであり、甘えになります。
私もそうです。登校できる私が何か理由をつけて学校に行かないのは、さぼりです。
自分と比較したり、人と比較したりするから、できるはず!なんて励ましたりもするのですが、50メートルを7秒で走る人が9秒で走るのは楽なことであるのに対し、50メートルを全速力で走って9秒の人はそれがマックスなんですよね。
『頑張るチカラ』を使っているのは断然後者なわけで・・・
いろんなことに能力の差があるのは自然なことで、会社でも同じことがいえますよね。
同じ仕事を任されて、簡単にできる人もいれば、できない人もいて、できない人はそれなりに時間もかかってしまいます。
でも、それでも全力でやることが大事。
できる人は余力を残してあっという間に終わる。
でも、その余力を手を抜くことに使ったり、さぼることに使ったりしたらどうでしょう?
仕事の成果は同じだとして、どちらが頑張ったと評価できるでしょうね?
ま、極端な例ですけどね、
人としてどちらを評価したいかといったら、私は『頑張るチカラ』を発揮する前者を評価したい。
できる人は、その余力を自分のマックスに向けて使って、初めて同じチカラを使ったことになると私は思います。
平等なようで平等ではないということですね。
話を主人に戻せば、今までは、自分のできる基準との比較で息子を見て来たけれど、息子にしてみれば、それがもうマックスの頑張りだとわかったということかな?
私はそう感じているんですよ。
『頑張るチカラ』というのは、自分に対して使うもので他人に求めるものではないですからね。
その人が頑張っていたら、『その頑張りすごいよな・・・』というもの。
これは、私の推測でしかないんですけど、主人から今そんな感じを受けているのです。
息子も頑張っている!
主人も頑張っている!
そして、私も頑張っている!
それぞれの基準でね^^
そういうことですね^^