私達はいろいろな社会のルールに縛られて生きています。
学校もあり、会社もあり、人との付き合いもあり。
縛られながらも、心が自由で、楽しめる人もいますし、楽しめる子供もいますよね。
私もそうなりたいな・・・と思いつつ、何が違うのかをよく観察します。
それで思うことが、楽しめる人というのは、いい意味で自己中心的でマイペース。
周りの目を気にしない。
縛りの中でも楽しみを見つけるのが上手なんですね。
反対に、周囲の期待、親の期待に応えようと、『いい人』『いい子』を演じてしまう人もいます。
どちらが生きやすいかは明らか。
でも、そう思ってもできない、だから、縛られる、束縛される、いろんなルールが苦しくなってしまうのだと思います。
これは、ただ、不器用ということだけではなくて、そうなる構造というのがあるのではないか、私はそう考えてしまうのです。
私も知らず知らずのうちに、家庭、学校、会社などのルールの中で過ごしてきました。
当時はこれが普通と思っていましたが、実は違うということに今は気付いています。
私は基本的に、縛られることが嫌いで、苦手。
とは言っても、人と関わらずに生きていくことはできません。
今の私が、過去の育った家庭、学校、会社にもう一度戻ったならどうするか?
これがヒントになると思ったのです。
今の私は、過去の自分が我慢していたということを知っているし、今の自分は嫌なことをさけ、どのように順応するか、ということを考えるのが分かっているんですよね。
ここで考えてみます。
今の私が過去の育った家庭に戻るなら、
納得いかないことにただ反発するのではなく、言葉で伝える努力をすると思います。話しをして、妥協点を見つけて、少しでも居心地のいい空間造りをするんじゃないかな。
つまり、家族に言われて嫌なことははっきり伝える。
『私はそれが嫌』『外出していても、これだと楽しめない』などですね。
他の人には角が立つようなことを言ってもそこは家族ですよね。お互いが傷ついても、赦しあうことはできると思います。
次に、学校はどうか?
私は、自分で『こうあるべき』姿を勝手に作っていましたね。
『欠席しないこと』
『勉強も部活もやってこその学生生活』
『先生が嫌いでも、最悪のクラスでも我慢』
こんな感じでした。
今の私なら、欠席するのは悪いことではないし、評価が落ちたとしても自分の身体を優先します。体調不良で登校しても辛いだけ。
部活も本当にやりたいものがあって、先生も先輩も仲間も合いそうだったらやるけど、もし方針とかが合わなかったら、学校外で好きなことをするという選択をするような気がします。
先生やクラスが最悪だったら、きっと情は入れずに授業だけ聞くでしょう。もしくは、授業中に教科書を見ながら自主勉をするかもしれません。
そして、クラスが最悪だったら、特に仲よくしようとはせず、本を読んだり自分の時間を楽しむと思います。
最後に会社ならどうするか?
嫌い、嫌という感情は抜けないと思いますが、そこから一歩進んで、人間観察をするかな。
その人の背景やその人の過去を想像したり、この事態はこうくるかな?と予想をしたり、ですね。
予想が当たったら喜んだり、楽しみます。
苦手な人とは、たまたま同じ会社にいただけの縁と割り切って、自分の仕事に集中し、仕事に関するだけの会話をすると思いますね。
人はみんなそれぞれの世界で生きていて、その人の人生はその人の選択で創っていくものです。
苦手な人とはお互いが交わる部分だけで、きちんと付き合えばいいのかなと考えると思います。
こうして流れを見てみると、過去の私よりかは現在の私の方が『心の自由度』は、高くなっていると改めて気付けます。
心の自由とは自分の捉え方次第で変わるということですね。
でも、また新しい苦しみも出てくるのが人生でして、これは今後も続いていくのでしょう。
今は、苦しい、生き辛いと思っていることも、未来の私はきっと自由度を高めているのでしょうね。
縛るのも自分、自由にするのも自分。
なかなか納得いかない結論かもしれませんが、今苦しんでいることに対して、感じる心を変えられるのは自分だけ。
未来の自分はもっと自由度を上げていると信じて!