昨日、主人が観ていたテレビを一緒になって観てました。
それは、中嶋悟、土屋圭市、片山右京の3人が、都市圏の一般家庭の激セマ駐車場にスーパーカー、クラシックカーを停めるというもの。
都市圏の住宅事情なら致し方ないのかなぁと思いつつも、車を乗るののがストレスになりそうな駐車スペースのところばかり。
私なら、車を持たない選択をするかな、と思って観ていました。
これって、不登校そっくり。
物理的なスペースに合わせて車を選ぶ。
学校という場所に自分を合わせる。
なんと無茶な考え方か、と思う方もいると思うんですけど、私にはそう見えたんですよ。
住宅事情の問題として、環境を変えることはできない、というのはあると思うんですね。
私も宮城に住んでますけど、震災が起きて、地震が多くても、私はずっと住むつもりでいるわけで笑
でも、地震が嫌なら引越すという選択もあるんですよね。
今は、海外に移住する人も多いですし、以前の「家」を守るという、昔ながらの風習も薄れてきていて、自由度は高まってきています。
環境を変えれば、駐車もストレスなくできる。
でも、環境を変えることができない。
勇気と覚悟は必要だけど、住むところを変えれば、好きな車を選んで楽に駐車もできる。
結構、シンプルに見えます。
さて、不登校はどうなるか?
まずは子供の心から。
決められたところに自分を押し込めることは、我慢をして小さく生きること。そして、だんだんと窮屈さを感じるようになり、心が抵抗を起こしていくんですね。
最初は慣れようと頑張るけれど、自分にとっては苦しい生き方にしかならない、自分の感性がそう訴えかけてくる。
自分をその環境に慣れさせるのか、他の環境を求めるのか、この選択になります。
環境を変えることはしたいけど、今度は親という壁が立ちはだかります。
子供は学校より、親の壁の方を子供は選ぶのかな。
次は親の立場から。
子供が学校に行かないことを受け入れつつとも心では受け入れていない。これは、誰もが持つ初期の心です。
心が受け入れていないから、子供の1日の行動がだらしなかったりすると、イライラする。
受け入れている振りをしていても、心は違う相反する状態だから、感情のコントロールが難しくて、疲れるのです。
この状態は、激セマ駐車場に停めている感覚に似ているかなって思いました。
我慢して、自分が合わせている、状態ですよね。
その環境に慣れ親しむことを選ぶのか?
環境を変えることを望むのか?
これが転機になるということかな?
私は苦しさから逃れたかった。
でも、その環境を変えるというのは、私の心は自由になるけれど、未知の土地に足を踏み入れるようなもので、勇気も必要です。
周りから何を言われても、どんな目で見られても、言い訳も文句も言えませんし、私がその選択後においてすることは、未知の地を自分の責任で、好きなように開発、発展させること。
こうしてみると、不登校の親子は、子供も親もタフですね。
そんな気がしてきました。
どんな選択でも、その人が良い思って、覚悟を決めていればそれでそれで立派な選択。
でも、選択をしたからには、自分の選んだ環境に文句を言わずに、その選択をした上で目的を果たす努力は必要と思います。
復学させようと思って頑張る選択も、登校を促さない選択もありで、どちらが良くて、どちらが悪いということはないと私は思っています。
親子が頑張れる選択の中で、その中で努力していくのが良いですよね。
偶然に見たテレビでしたけど、自分の心を反映しているなって思わされました。
今、私が住む宮城でそのような環境が与えられていたら、私は宮城内で新しい住居を探します。
それが私の選択ですね。