不登校は親の気持ちと子供の気持ちが背を向け合います。
学校に行ってほしいと願う母親の気持ち。
学校に足が向かない子供の気持ち。
どちらかに寄り添う解決策をとると、どちらかが我慢をすることになってしまい、だから、苦しみが生じて来るんですよね。
登校の行き渋りから学校に行けない原因を探っていくのが普通ですけど、ここで出てくる代表的なものが、
・いじめとか嫌な人がいるなどの友達関係。
・担任と合わない。
ではないでしょうか?
私の息子も最初はそうだったのだと思うのです。
でも、これらの問題が解決しても、学校に行くことはできませんでした。
言葉として表現されたものだけではなく、いろんな要素が絡み合っていて、今でもこれという原因がわからないのが実情です。
原因があって結果があるというのは、正しいのかもしれませんが、
学校の規律がダメなのかもしれない、
集団行動が苦手なのかもしれない、
人と会うのが苦痛なのかもしれないetc
グレーなところが多いような気がします。
原因がわかっていて、その原因をつぶしたことで登校できれば、それは親子でスッキリする解決。
でも、そうでない場合は、お互い妥協しながら、対策をとっていくことになります。
どちらの言い分にも偏らない、『行く』でもなく『行かない』でもない方法です。
親は、子供が学校に行けないのなら、次にどうして欲しいと願うのか?
学校に行かなくても勉強をして欲しいという人もいるでしょうし、家にいるのではなく人と関わりを持って欲しいという人もいるでしょう。
それから、好きなもの、得意なものだけでも打ち込んでくれたらいいという場合もあります。
お子さん側では、学校には行けないけど何ができるのか?
習い事なら行ける場合もあるでしょうし、家庭教師なら勉強できるという場合もあるでしょう。特定の友達となら会うこともできるということもありますよね。
子供の気持ちを尊重して、学校に行かないことを受け入れていく親が大半ですけど、心の中では、いつか通えるようになったらいいなと願っていて・・・。
願いの方向を見ながら、別な方向を見ないといけないという状態ですよね。
この状態では、苦しさはなくならず、辛い。
これは選択肢が2つになっていて、一つの選択をしているからで、表面上は見えなくても、心の中では、『行く』か『行かない』で判断しているからだと思ったんです。
何が言いたいかというと、
親もちょっと妥協し、子供もちょっと妥協する案。
親も少し楽になり、子供も少し楽になる案。
『行く』『行かない』に加えて、このような第3の案的なものを積極的に考えてみるのもいいのではないでしょうか?ということなのです。
これは、息子の小学校時代にこうしていたら良かったなという私の反省からきています。
もし、あの時こうしていたら今どうだったろう?
もし、そうしていたら、お互いの苦しみは軽減されていたかな?とちょっと悔いを残しているところがあるもので。
私の心は、息子の不登校を受けれているように見えて、いつも心のどこかで学校に執着していました。
自分で自分を苦しめていたんですよね。
苦しめるのも自分ですし、解放するのも自分です。
不登校問題に限らず、これはすべての人間関係に通じますね。
人は欲望があり、感情があります。
話の決め方は、両方の立場を考慮して、お互いが満足のいく形がないとこじれてしまいます。
欲望が相反する場合は、相手の欲望50%、自分の欲望が50%、このくらいの気持ちを持った方が、心を楽に生きていけるのではないでしょうか?