自分の人生を振り返り、楽しかったことが多かっただろうか?苦しかったことが多かっただろうか?
昨日は一日、自分の人生というものを見つめていました。
苦しくたっていいじゃない?
今日の私はそう思います。苦しくても今日まで過ごして来れた。
楽しい人生を選ぶか、苦しい人生を選ぶかなんて問題がそもそもおかしくて、誰にでも楽しい人生はあるし苦しい人生もあって、それがセット。
人の特性として、楽しい時は「これはいつまで続くの?次は落とされるの?」と思うところがあるし、一方で苦しい時は「この底はどこにあるの?次はどんな苦しみが待っているの?」と思うところがあると思います。
これは、自分が外的なものに影響を受けているということですよね。
楽しい風が吹けばそちらに流され、苦しい風が吹けばそちらに流される、という感じにね。だから振り回されているような感覚に陥ります。
私も散々経験してきて最近ようやくわかってきたかなぁというのがあるんですけど、自分が楽になる考え方というのものが、
苦しみは敵ではなく、結果として心から涌く喜びにつながるというものです。
喜びって、楽しい!嬉しい!というキャピキャピしたものも勿論あるんですけど、私が言いたいのは涙が溢れてくる喜びというもの。苦しみ、苦難の中にはそういった成長の種が必ず含まれていると思えるようになってきたんですよね。私の中ではそれが信じられるようになったということなんです。
振り返れば、私は散々運命に振り回されてきて「私の人生はそういうものなんだ・・」と受け入れていたところがありました。
でも、これは違う。そうじゃない。
私が悩んだ問題ほど、私に大きな気付きをもたらしてくれていた。
悩んでいる時は愚痴や不平不満しか出てこなかったことも、今では違う視点に立ち「そうだったよな」と眺められるし、自分の未熟さも認められる。良い感情を抱けなかった相手のことも、私と同じで、相手も未熟で、それが精一杯の振る舞いだったんだろう、と思えるようになれてきた。
といっても、今直面していることに愚痴りたくなるのはこれもまた普通のことで(笑)
ただひとつ違うのは「これは今だけの感覚で(人生の中での)一時的なもの。これを肯定的に捉えることができている未来の自分がいる」と根拠なく信じ切れている、ということかな。
不登校と付き合ってきた自分だけでも凄いって今では思えるし、今では、こうして過去の経験を洗いざらい書けるくらいに私の中ではもう昇華されていて、それを今悩む方に届けることができる心境にも実際なっているわけで、だから、こうしたブログも書いています。
もっと言えば、経験から思うことを付け加えることも可能で、そういった考察を重ねることで、私自身がより不登校の深い学びをしているんですよね。
これは私に不登校の経験があったからこそできること。
もし、読んで下さっているあなたが、私の発信から何かを感じたりヒントを得てくれているのであれば、それが今の私の喜びだし、不登校が与えてくれた喜び。
だからね、苦しいと感じる時こそそれは幸せの種と思って、未来を見て向き合っていこうと思う。
それが今日の私が感じること。