日々の生活に変化があるのと変化がないのとでは、あなたはどちらを好むのでしょう?
毎日、同じことを繰り返して一日を終えたりしていませんか?
変らぬ毎日に感謝することも大切だけど、変わらないということは進歩がないとも言えます。
欲求を備えている私たちにとっては、どこか物足りなく感じるときが来るのではないか、と私は考えます。
息子が普通に学校に通っていたら、私はどんな生活を送っていただろう?
と時々思うことがありますが、どんな自分かをほぼ想像できるというのがおもしろいところ。
私が想像するのは、とりあえず朝のバタバタをやり過ごしてホッとし、それから仕事をして、夕方に家事をして、というパターンが見えます。
学校に行っていることに安心し、息子の進路もパターン化した見方しかできなったことでしょう。
つまり、ごくごく狭い視野でしか見れていなかっただろうなぁと思うわけです。
今となってしまえば、これは私にとっては怖い考え方でもあって、今後のことを考えるには不十分でリスクさえあるように感じていますよ。
学校に通えるのが日本の真っ当なレールで、そのレールから外れてしまった子は、好奇の目で見られるのがまだまだ日本の風潮。
通えていれば安心に身を委ねられるけど、通えなくなると動揺、混乱、パニックに陥って、どうにかして通わせようと必死になる。
みんな同じパターンを経験しますよね?
確かに動揺はするけれど、学校に行けないことで一番困ることは何ですか?
こう聞かれて、スッと心からの答えが導き出せるか?と言われたら、私は答えられないかもしれません。
- 大学へ行けない
- 就職できない
- 人との関わりが保てない
という表面的な答えを発することはできますよ。
ただこれは、頭の中が学校に行けないと将来は困る…というパターン化された思考から出てくる、用意された答のようなものです。
何が言いたいかというと、不登校はあなたの脳内を耕してあなたの新たな考え引き出す機会ですよ!ということ。
自分が安全と感じるところから放り出された不登校という「変化」。戸惑い、混乱し、受け入れられなくても、それは自然なことです。
でも、「変化」は必ず今までとは違う何かをもたらし、それは捉え方次第で「進化」になります。
平凡な毎日がいい!と思うかもしれなません。
でも、それだけだといつかは物足りなく感じるときが訪れます。
例えば、
出会いって嬉しくありませんか?
心がウキウキした経験がありませんか?
新しい出会いでなくてもかまいません。
どなたかと数年ぶりに会って話をしたら、それも嬉しくてそれもあなたの大きな活力となりませんか?
新しい出会いも飛び込む勇気、話しかける勇気という、最初の一歩があって日常に変化を生み出してきています。
あなたの意識で動かした「進化」です。
「変化」が「進化」につながるなら、不登校という強制的に投げ込まれた「変化」も「進化」のチャンスのはず。
圧倒されていると「変化」に翻弄されてしまうけど、それこそが促されているチャレンジかなと思います。
90%の人が日本の慣習、風潮に馴らされた考え方しかしない。
でも、あなたは10%の違う考え方を生み出せるチャンスが与えられている。
90%は学校に行ってくれたら?元の生活に戻ってくれたら?と願っても良いと思います。
でも、少なくとも10%だけは「不登校だから学べたこと」を積み重ねてみてください。
この挑戦があなたの思考の抽象度を上げることのなって、人生を俯瞰することにつながるだろうし、お子さんを観る目も柔らかく広がって、お子さんの可能性を見つける手助けになると思いますよ。
そして、不登校を卒業した時は「進化」した自分を素直に喜んでいるはずです(^^♪
チャレンジを受け入れてみてください!