サイトアイコン 【大丈夫!不登校】ブログ~母の日誌

「〇〇できて当たり前」は、自分に対して使う言葉

 

試験一日目が終了しました!

得意の数学が難しかったー、と得点を伸ばせなかったようで、雪の降る中、心も身体も凍えて帰宅しました。

いくら過去問を解いても対応しきれないものはあるし、イレギュラーな年もあって、思い通りに進まないというのは誰でも経験することですね。

思い通りにならないときに、どう向き合っていくかがその人の成長だし、私達親もその典型的な例。

子供が不登校になるなんて思いもしませんから。

登校できて当たり前。
○○できて当たり前。

当たり前という言葉は自分の基準を高めるために使うときはとても崇高なものになるけれど、他人に対して使うときは注意が必要。その人の自尊心と自信を貶めてしまうことにもつながってしまう言葉なのでね。

私はそう思っていますよ。

私も心のなかで「登校できて当たり前」とずーっと思ってきましたから。

でも、頑張ってもできないことに「できて当たり前」を言われ続けたらどうなるでしょう?

おそらく、できるだけ聞きたくない。言われたくない。その言葉を言う人と距離を取ろう、と思うのではないでしょうか?

つまりは嫌われるということ。

私自身が言われて嫌なんで、息子はもっと嫌だろうなと思います。

 

仕事でも勉強でもどんな分野でも、素晴らしい結果を出している人というのは、当たり前の基準が高い。

観察していればわかりますが、自分には厳しく当たり前を課すけれど、それを人には強要したりしないんですよね。むしろ、相手の当たり前の基準をあげるように力を貸してくれる。

 

息子は葛藤の中今日の試験に行くことになるでしょう。

でも、これも必要な経験。

昨日はダメだったかもしれないけど、目の前にはまだチャンスが残されているということに気付いているかな?

気持ちを引きずって向き合うのか、まだチャンスがあってついてる!と思って向き合うのか、試されていますよね。

私も親として、息子を信じて見守るという試練を課されているところ。

私も不安、心配の感情に支配されるのではなく、こうして客観的に見つめる作業が必要なわけで、これが、私の当たり前の基準を高めていくことにつながります。

 

思い通りにいかないことを経験して人は成長していく。

相手に当たり前を強要している自分に気付いたら、自分の当たり前の基準を上げるように目を向けよう。

 

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