人には欲望があります。
あるものを手に入れたら、もっと別なものが欲しい。
これができたら、これもできるようになりたい。
欲が良い方向に向かっていくのは素晴らしいことで、それに従い自分が成長していくのは良さげにも見えます。
誰でも、もっと、もっと、という欲は持っていますからね。
でも、裏を返せば、追い求めるだけで満足できないことも意味していますね。
子供が産まれて、最初はただ無条件に嬉しくて、可愛かった。いるだけでいい、純粋な笑顔を見るだけで私達は満足していたはず・・・
懐かしいですね。
子供が段々成長するにつれて、それぞれに違いが出てきます。
身長の伸び、体重の増加、言葉の発達・・・
学校に行けば、それらに加え、勉強の良し悪し、運動能力、手先の器用さ、発表能力・・・
我が子と他の子との比較が始まり、もっと、もっと、が知らず知らずに強くなりますね。
私もそうでした。
歩くのが遅かったり、言葉が遅かったり、他の子と息子を比較して、心配して、不安になって、自分で勝手に焦っていましたね。
母親を求めて、無邪気な笑顔を見せてくれる息子は変わらぬままなのに・・・
息子が学校に行けなくなり、学校の対応や先生に不満を抱えたりもしたことがありましたが、息子の『行かない』選択のおかげで、私は学校とちょっと距離が置くことができました。
この適度な距離感が私に客観的に『学校』と『母親の姿』を見る機会を与えてくれたように思います。
他のママ友の子供に関する話題に触れるたびに、私の心は敏感に反応し、そう、他の子はできているのに、うちの息子はできない・・・
自分の心が痛むのです。
あなたならよくわかりますよね?
でも、息子が通えたら通えたで、当時の私なら、今度はもっと成績を伸ばして欲しいと思ったでしょうし、運動会で活躍して欲しいとも思ってもいたでしょう。
私が学校と距離をおけたことで、他の親子の姿を第三者的に見ることができるようになっていました。
鏡の法則です笑
他のお母さん方の姿を見て、自分が息子にしていた姿を見れたのです。
他の子と同じにできるように、そうできるようにすることが、息子が将来困らない道と私は思っていましたから。
ある日突然フィルターが外れるということはありませんが、距離を置く時間が長くなるにつれて、
徐々に外れていったようにと思えます。
息子がそばにいるんですよ。
どんなに嫌味を言われても、どんなに怒られても、母親のことを好きでいてくれる息子がいるんですよ。
学校に行けない時間が長くなるほどに、私は産まれた時の純粋な気持ちに戻っていけたのかな。
もっと、もっと、という世界にいた自分から、産まれたての感情に戻っていっている自分へ。
不安も心配もあるでしょう。
でも、今日1日、お子さんが産まれた時の感情を思い出してみてください。
お子さんの存在にどんな感情が溢れますか?
当時の気持ちで見てみると、その子の大切に育てたいところが見えてくるかもしれませんね(o^^o)